(1) JRPS(日本網膜色素変性症協会)ユース部会について
JRPS(公益社団法人網膜色素変性症協会)は網膜色素変性症という難病、また類縁疾患を持つ方も含めて対象にしている患者会。
ユース部会は全国の16歳~35歳までが対象。会員は70名(会員の半分は関東、それ以外は東海、関西など)。
主な活動内容
(2) カミングアウト体験談
①-1 学生時代のカミングアウト
中学校1年生で網膜色素変性症の診断を受けた。中学・高校では仲の良い友達に伝えていた。クラス全体には大きい声では言わないが何か変な行動をして聞かれたら言うことにしていた。大学の時も、仲の良い友達や先生には全部オープンにしてきた。
4月から大学院に進学。大学生の時は障害者手帳を持っていなかったが大学院生になり、病気も進み、周りに頼まないとできないこと、助けてもらうことも多そうだと感じて、自分から話した。
学部からそのまま上がっているのではなく、全員が違った大学から来ているので、自己紹介をする場があった。そこで、名前、出身地、目が悪いことを伝えた。入学式の翌日にラインのグループができたので、見え方、病気のこと、配慮の仕方をA4用紙一枚にまとめて、まだ顔も名前も覚えられてない中でこういう人がいるということをわかってもらえたらうれしいとコメントを入れてファイルを共有した。
内容は自分の名前と病気の名前、弱視で読み書きが難しいこと。歩くときの補助の仕方の図を載せて、こんな感じで誘導してほしいと伝えた。また、テレビ、色の話、雑誌の話は気を遣わずにしてくださいと伝えた。
友人の反応は、仲良くなった友人は階段や溝を誘導してくれた。友人から「言ってくれてありがとう」「心理学の勉強をしているので共有してくれたら嬉しい」と言われた。
①-2 学生時代のカミングアウト
小・中の時は病名がわからず、目がちかちかしていた。普通の人ができることができない、バトミントンのシャトルが急に見えなくなる、バスケ部に入っていたが普通の人が取れるボールが取れないことで悩んでいた。高校2年で網膜色素変性症と診断され、自分が悩んでいた原因がわかって割り切ることができた。また、病名がわかったので周りに説明しやすくなった。同時に自分自身病気の受容をすることができた。コンプレックスの一つとして受け入れている。
見え方はドラッグストアでバイトできる視力視野で、普通に歩いていたら友人にもばれない程度。身体障害者手帳を大学の時に取得し、周りの人に手帳を見せるとびっくりされた。
病気、症状を説明すると、「そうなんだ」と軽い感じで反応、理解してくれた。見えにくいことをオープンにしていくとだんだんさりげなくサポートしてくれるようになった。周りの理解も深まることで自分も過ごしやすくなった。
高校生の時、スマートフォンを持たせてもらった。オープンチャット、コミュニティ、ツイッターなどの情報、同じ病気で障害を持っていても精力的に活動されている人や楽しく生きている人を知って、そんなに絶望などはしなかった。知らないと不安、知ると安心。
②-1 職場でのカミングアウト
現在30歳。22歳、新卒の時に地元の病院で作業療法士として仕事を始めた。その時はまだ片目が生まれつき見えないということだけを開示して就職していた。親が自分に網膜色素変性症のことは言っておらず、就職後一か月後ぐらいたって伝えられた。会社に言わないといけないと思っていたが、視力は1.0あり、視野も運転できるぐらいあった。視野は下の方が見えないので物を蹴とばすことはあったが、生活に支障がないと思っていた。しかし、仕事中、徐々に物にぶつかったり、蹴とばしたりすることが増えて辛い、しんどいと思うことが多くなった。職場に言わないといけないというのはずっと心の片隅にあったが、言ったらどうなるか、仕事を辞めないといけないか、変に思われないか、という不安が先に立って、そのままになってしまった。
JRPS群馬に所属し、職場に言うべきか相談した時に、「言える時に言ったらいいんじゃない?」と軽く言っていただいたのがきっかけで、言っていいんだと思えた。そこで職場の直属の上司に相談した。話を聞いてくれて、後押ししてくれた。就職して3年目、身体障害者手帳を開示し、障害についてをカミングアウトした。
その時の職場で伝えるということを経験した。しかし、情報をあまり知らなかったこともあり、身体障害者手帳を見せて、見えにくいことを伝えることに精一杯になってしまって、一方的にできない、できないかも知れないとあやふやなことしか言うことしかできなかった。会社側は混乱したと思うが仕事は続けて下さいと言われた。でも、このままリハビリの仕事をするのは病気が進行した時、人の移動や動きを把握することが難しいと感じ、転職を考えた。転職したら、次の職場では必ず障害のことをきちんと伝えて開示しようと思った。できることとできないことを箇条書きで書いて伝えたことで気持ちが楽になった。
②-2 職場でのカミングアウト
伝え方が難しい。エントリーシートに障害があることを書いた。通信会社に就職したが、最初は自分が何ができて、何ができないかを伝えることが難しかった。仕事では自分ではできると思っていたことができない場合が多かった。特定の作業工程で健常者だと3分で終わる事が1~2時間かかる場合があった。自分では予期できず、周りに説明できない。上司などにできること、できないことをきっちり伝えないといけないと思った。
③-1 日常生活でのカミングアウト
5,6歳で診断がついていた。視力は残っていたので学生時代、運動部にも在籍し病気のことは隠していて、周囲になかなか言えなかった。
日常生活の中で美容室や洋服屋さんなどでは目のことを伝えていない時はすごく苦労した。洋服屋さんで色の違い(紺ではなく黒)など店員さんと話がすれ違うことがあり、コントみたいだった。後で店員さんと仲良くなってから、店員さんからはお客様に「見えてないでしょ?」とは言えなかったと言ってくれた。今は白杖を持っていたら対応してくれる。美容院でも席とシャンプー台までの手引きをしてもらっている。伝えていなかった時、20代半ばまでは素直になれなかった。葛藤があり、見えにくいことを受容できない時期もあった。
④-1 親から本人へのカミングアウト
母親は心配してくれる。中学生の時、夜盲の症状があるので安全面を気にして、車にひかれないように小学生がつけるような光るキャラクターのキーホルダーを鞄につけられた。それがすごくはずかしかった。余計なお世話と反発し、親から心配されるのが嫌だった。自分自身も病気の受容ができていなかった。親が事故にあわないようにと心配していたことを今は理解できる。ほかにも遮光メガネをかけるように言われたが変わった色で嫌だった。両親は遮光メガネをかけないと進行すると心配していたと思う。
両親は僕のように見えづらいわけではないので、見えづらい状態が理解しづらい。見えづらくても楽しく生きている視覚障害の方を両親が知らないので、必要以上に心配になり大変になる。情報がなければないほど大変。親と子の両方が知識を持ち、同じ歩幅で病気に向かっていかなければならないと思った。
④-2親から本人へのカミングアウト
22歳の時にこの病気を知った。4,5歳の時に診断はついていた。両親は本人には言わないようにしようと決めていて、18年間言わずに22歳の時に私が仕事に就いてから病気のことを開示した。
母から病気を伝えられた時、片目が見えなかったこともあり自身の病気については理解できた。だが、その後は障害を受け入れることの辛さはあった。でも、高校生など早い時期に言われたらもっとしんどかったと思う。
眼科の検査は行っていたが検査結果を知らされてなかった。22歳の時に検査データを見せてもらったら着々と進行していた。病名について言わなかったことは親と先生の優しさだったのかなと思った。親は障害があるせいで職業の選択の幅を狭めたくない、若いうちに聞いたことで落ち込んで、内にこもってほしくないという気持ちがあった。両親も病気を知った時ショックを受けた。
医師から盲学校進学を勧められ、5歳の時に母と一緒に見学に行ったことがある。当時は見えづらい生徒を見て、将来自分も目が見えなくなるかもと感じた。親はショックだったと思うが盲学校を選択肢のひとつとして見ておくのはいいのかもと思った。
JRPSユース部会に入るとき、自分の将来はどうなるのか考えたが、本人と同じぐらい両親も考えていたのだろうと思う。
⑤-1 医師から本人への告知
小学生の頃から1年に1回は検査をしていて、中学生の時に診断がついていた。小学生ぐらいの時から人と見え方が違うと気づいていたが、それがどうしてかわからなかったのでずっともやもやしていた。
大学生になり診てもらっている医師が小学生の時に診てもらった先生だと親から知らされた。病名については自分のことなので早く教えてほしかった。病名、理由がわからなかったので苦しかった面がある。自分の場合は病名を言ってもらって楽になった。
⑤-2 医師から本人への告知
反発と反抗が続いていた。インターネットで病気について調べ、一人で落ち込んでしまった。周りにも言えない状態だった。大学に行った後、診察を受けた医師との出会いから、それまでの病気とのかかわり方がガラッと一変した。見え方の説明や情報をくださり、ケースワーカーの人たちにもうまく誘導してもらった。ロービジョンケアにはじめて触れ、自分自身も落ち着いたと思う。まだ、落ち込むときもあり、行きつ戻りつだと思う。
医師が患者との唯一の接点なので、患者へ様々な情報提供を行えば、選択肢の幅が広がる。例えば公的機関、公的制度、患者会等団体の紹介など。医師が忙しい場合は、スタッフの方からでもよいと思う。今となっては中学生のときは医師との関わりが唯一の接点だったと思う。
(3) カミングアウト意見交換会
●医師A
告知に関してはした方がいいのではないか。私がそういうタイプなので知りたいのではないかと思う。家の中で病気の話題がタブーになるのが一番つらくなる。その子供さんの性格などは親御さんが子供さんのことを一番よく知っているので、伝えるタイミングについては親御さんとよく話し合う。
告知を経験していない時はすごく難しかった。多くの眼科医は網膜変性のバリエーションや医療以外の情報を知らなくて、言えない。だんだん情報が得られて自信をもって言えるようになる。同じ病名でもワンパターンではだめで、網膜色素変性症でもいろんなパターンがある。
親御さんの疾患や視覚障害に対するとらえ方が患者本人の人生を決めてしまう。まず親御さんに視覚障害をどう考えたらいいかというのを話す。過剰にセーブしてはいけない。
●医師B
私自身が大学で眼科医の教育を受け、卒業後6年目に外の病院に勤務するまでの6年間で視覚障害の人は2人しか知らなかった。色素変性の人には会ったことがなかった。当時、20人の視覚障害の人に会った。健康管理の役が与えられたが、一言で言うと眼科医にとって恐ろしいことだった。それまで、白内障の手術をして術後の視力が0.1から0.9になるというように、数字に一喜一憂していた。それはいけないと思い、30年以上前の教科書を読んで勉強して、告知なしのリハビリはない。告知するのは医者の役割であると書いてあった。
新しく入ってきた視覚障害の方がリハビリに入らなかったので背中を押すつもりで、もうあなたの目は良くならないからリハビリに励んでみようと何気なく言った。その方は全く告知されておらず、自分の目が良くならないと思っていなかった。その後、施設の中に閉じこもって2か月間一切何もしなかった。それが私のトラウマになり軽々しく見えるようにならないと言ってはいけないというのがずっとある。
その一方で割り切りは必要。今までの執着していたものから方向性を変える、気持ちの持ちようのチェンジが必要。必ずしも告知と一緒かどうかはいまだに疑問がある。割り切り、開き直り、そういった気持ちになれるようにうまく誘導ができれば、また、誘導まではいかないが多くの場合時間を待ってその方の気持ちが落ち着くということが社会参加への良い方向に向くのではないかと思う。その時にあえて病名とか失明とか絶対そうだからあきらめなさいというような言い方は嫌だ。そこまでする必要はないのではないかと思った。
そういう経験を通して、みなさんの辛い顔を見て、また見えなくたって元気な人はいっぱいいる。そういう方とどれだけ知り合いになるかなど経験値を積んで、眼科医側も情報提供等を含めて話しやすくなる。いろんな情報を知っていても明るい当事者を知らない方(眼科医)は逃げ出したくなる気持ちになると思う。告知はほんとに大変な仕事だと思った。
●医師C
精神科医。私自身が網膜色素変性症の当事者なので、先程のJRPSユースのみなさんのお話は、自分が通ってきた道だなと非常に懐かしく思った。網膜色素変性症はいつか見えなくなるかもしれないことを告知するので、どの時点で告知するかのタイミングが難しい。
私の仕事と少し似ていると思うのは知能や発達の障害の告知。生まれながらにできないことがあって、本人はなんでできないのかわからなくて、周りからは誤解を受けたりしている。告知することで誤解から救ってあげる、勘違いを受けている人を守ってあげる、あるいは自分を責めている人にそれは病気のせいだと自責を免責にしてあげることができる。
ただ告知で患者さんを守ってあげることはできても、夢をかなえてあげられるわけではないので、やる気があってがんばりますという人の場合はちょっと告知を待つこともある。それで怒られることもあるが、その人のキャラクターをみて、最適のタイミングと言葉で伝えるというのを意識している。障害を伝える時には希望の言葉も添えて伝えるというのが大切。治らない病気を告知され、落ち込んでいる人の心をサポートするのも私の専門なので、我々精神科医を活用していただければと思う。
私も自分が網膜色素変性症の当事者でもあると全ての患者さんにカミングアウトしているわけではないが、自分が誰にもわかってもらえないんだとふさぎ込んでいる患者さんには、あえて「僕が目が見えていないのを気付いていた?」とカミングアウトすることもある。自分も相手をわかっていないんだという患者さんの気付きに役立つことがあるので、視覚障害のカミングアウトを診療で使っている。
●ギャラリーより
●ユースメンバーより
●医師D
告知の話は私にとっても他人事ではない話。私が眼科医になろうと思った一つのきっかけは高校生の時の同級生の自殺。カメラマンを目指していた友人がおそらく網膜色素変性症だと思うが、告知を受けた日に本人が調べて行った病院で最新の眼科の治療でも治りませんと話をされ、その日に命を絶ってしまった。そこが僕のトラウマになってしまって、なんとかこの病気は治せないかと思って眼科医をやってきた。今日は自分の告白というのもあると思うが、私自身が眼科医からiPhone・iPadの方に移行したというのも一つは外科医としての自分のキャリアに挫折したというのがあった。手が震える癖があって手術ができないという中で普通の眼科はもうやめようとなって、iPhone・iPadを使ってみんなの笑顔を増やしたいと思ってやってきて、10年が経ってわかったことは私の友人に告知した先生が何をできてたらよかったのかと考えた時に、眼科医が失明に対して無知だということが一番問題だと思う。戦えない、武器がない、やれることがないという無関心がその人を殺したと私は思っていて、じゃあ見えなくなるかも知れない、そうだとしたら眼科医としてすべての知識を使って二人三脚で、一緒に考えていこうよ、私はあなたを見捨てませんよという言葉がちゃんと出ていたら多分違ったんだろうと思う。私が10年やってきたことというのは眼科の先生たちに自分でやらなくてもいいからスマホやタブレットなどその辺で売っているもので人生が変わる人がいるんですよ!ということを伝えたい。それを眼科医が知っていたら打つ手がないという状況は少なくなるとも思う。10年やってきて外科医をやめた自分が感じるのはやっと友人が救われた、自分の中で。
最終的にこの世界に入って一番救われたのは私自身だなと思っていて、治せない、手術ができない眼科医と自分を呼んでいた状態から手術で治らない患者さんを診る眼科医になれた。自分の名前が変わったような感じ。その時に自分自身を受容できた。正しい情報を処方するだとか元気な当事者、友人、モデルケースを知ることで本人も治っていく。その上で、一番挫折したり無関心になったりしてはいけないのは眼科医、告知する人だと思う。それは親も含めてだと思う。
なので、こういう会をネクストビジョンとしてどんどんやっていくことで、もっと気軽にいろんな障害のある人と混ざって生活し、あの人は耳が少し聞こえにくいのでスマホでこうやっているんだって、そのアイデアすごいいじゃんとか普通に、みんなが当たり前に年をとっていったら耳も悪くなるし目も悪くなるので、その中でどういう工夫をしたら生きていけるかということをみんなで共有できてきたらいいと思う。
●ユースメンバーより
命を絶たれることはすごくショック。自分自身も何も知らない。健常者が当たり前にできることができない。どんどんできなくなっていくことが絶望だと一時期自分もなった。周りの意見も聞いていたらそういう人も多いのかなと。知るか知らないか。結局いろんな情報を知って元気になるパターン、解決するパターン、自分が問題解決の糸口を知るというか、知らないままだとどんどんネガティブになる。自分が様々な考え方や対処法を知ることができたきっかけは患者会。いろんな話を聞く方法は書籍からでもいいし、人に聞いたり、インターネットで調べたりしてまずはいろんな団体や活動に参加して話を聞いてほしいと思う。
●医師E
53年間眼科医を務め、多くの網膜色素変性の患者さんを診てきた。先程いろいろな患者さんの話しがでたが、私の患者さんに中にも病気を苦に亡くなられた方もおられましたし、振り返ると実に多くの思い出がある。来年には80歳になるが、今でも日本各地を訪れて色素変性外来を行っている。今日も午前中は名古屋でその外来があった。その他にも熊本、静岡、東京、それに神戸でも月に一度、診療を行っている。大学病院にいた頃はすべての網膜疾患の患者さんを診ていたで、患者数が多く一人10分程度の診察だったが、現在は色素変性とその類縁疾患に限っているので患者数も限定され、一人あたり30分以上、長いときでは1時間程度の時間を割くことができ、ゆっくり時間を取って病気の本態、遺伝、先端医療を用いた治療の可能性等々をお話できる。患者さんはメモを取りながらしっかり理解され、満足してお帰りになる。長年の診療体験で、このような診療をしたことは初めてで、これこそが現時点では有効な治療がない遺伝性網膜疾患に対する最高の診療であると感じている。
(4) まとめ~最後にひとこと~
●ユースメンバーより、見えなくて悩んでいた時に今の自分がその時の自分にかけてあげたい言葉
当時の自分に言いたいこと、さっさと受容して言った方が楽になるよと言いたい。ただ当時の僕の感情ではなかなかそれを受け入れられなかったと思う。なので同じように、まずは患者会などでいろいろな頑張っていて明るく元気な人を知ることが大事だと思う。まずは会ってほしい。そうすると少し心の持ち方が変わるのかなと思った。
●チャットより
●医師A
本当にありがとう。いつも思っていた通りだなというところと、ああそうなんだというところとがあってみなさんもこの若い人たちの抜け感というか聞いてくださった方はものすごい学んだのではないかなと思う。最近の若い者はという話もあるが、私はいろんな人と接していて若い人の力、解決能力はすごいなと思っているし、日本の若い人たち特にお金だけが目的じゃないという意識の、すごく能力がある人が育っているなというように思う。一つわかった、学んだのはカミングアウトというけれどポイントではないんだなと。カミングアウトで最初はうまくいかなかったが次は、という話でなるほどと思った。カミングアウトは一回やったら終わりではなくて、それで学んで私達も告知というのは実は試行錯誤しながらだんだん成長してここまできたけれど、カミングアウトを持続してやることでうまくなっていくんだなというのもわかった。
それとメッセージとしてぜひ知ってほしいのは、障害を持つということが欠けていることではなくて、みんないろんな障害というのを普通の人も持っているわけだけれども、それが実はニーズでありイノベーションを起こす価値であるというのは逆説ではなくて本当にそうだと最近私は確信を持っている。視覚障害というニーズのために私たちも再生医療というのを作っている。この人たちがいるから研究しているように新しいことを生み出す力であるし、パワーを与える。心理学の学部にいると言った方なんかは周りで接している学生たちも心理学の勉強としてすごく得している。すごい価値なんだということを理解してそれをうまく使ってほしい。
●医師B
長く関わってきたけど、今、なんかジーンとしている。一つ言えば、今日来ていただけた方はこういう会に参加できるチャンスがあるけれど、そういった情報を仕入れるテクのない方がとっても多いという事実もまたあるんだなと思って、何とか目が悪い分だけより情報を仕入れられるような教育なり支援なりというものをもっともっと充実させたいと思った。
●医師C
今日は本当にいろんなお話をありがとう。ユースの皆さんのお話がほんとに懐かしさもあって私もジワーっときた。やっぱりカミングアウトをするまでには時間がどうしてもかかるし、自分の中で状況を受け止めることができないと外に出すってなかなかできないと思う。それは恋愛の「好きです」の告白も多分一緒で、時間がかかってもいいと思うし、やっぱり伝える時っていうのは不安がある。言ったことでどう思われるだろうとか、関係が変わってしまうのではないかとか、すごく不安が大きいが、忘れないでほしいのは期待も必ずあること。うまくカミングアウトができるとより良い関係に変わっていく。愛の告白もそう、振られちゃう不安はあるが、うまくいけばより良い関係になれるので、ぜひ不安と期待は一緒にあるというのを大事にしてほしい。
僕自身も見えないというのをどういう言葉で、どういう力加減で、どういうタイミングで、どういう顔で言えばいいのか、未だに模索中。みんなでこの模索を続けよう。
もう一つ、愛の告白でもそうですが、言った時の相手のリアクションがすごく大事。振られちゃうにしても、相手がいいリアクションをしてくれるとその後のいい関係が続く。いいカミングアウトの仕方を僕らは模索していく一方で、カミングアウトされた時のいいリアクションの仕方、その両方をみんなが模索していけたらいい。我々目が見えない人間も誰かにカミングアウトされることが十分ありえるので。
40年ぐらい前の最初のスターウォーズで、ハリソン・フォード演じるハン・ソロが冷凍される直前になって、やっとレイア姫が「I love you」とカミングアウトする。その時のハン・ソロの返しが「I love you」に対して「I know(知ってるさ)」と言う。すごい格好いいリアクションだなと思う。
格好いい返しじゃなくても、カミングアウトを受けた時に「伝えてくれてありがとう」と第一声に言ってあげることができれば、カミングアウトした人も良かったなという気持ちになれるし、また別の誰かに伝えようという気持にもなれると思う。当事者としても医療者としても、カミングアウトする研究・される研究を引き続き続けたいなと改めて思った。今日はたくさんの学びをありがとう。