「元気がでるチョコ話」

    • 今回はアイシーワーキングアワード2020の就労事例部門で入賞された上原晋さんをビジョンパークにお迎えして、まずはじめに「元気がでるチョコ話」をしていただきました。以下、上原さんのお話です。アイシーワーキングアワード2020の就労事例部門で入選をいただきました上原すすむと申します。
      世界遺産の日光東照宮のある栃木県から参りました。
      手づくりショコラ工房アカリチョコレートという小さなチョコ屋を妻と二人で営む52歳です。

      私はチョコをつくる以外に、時々出張してチョコ付き講話をしております。
      チョコをつまみながら体験談を聞いてもらう、この「勇気のでるチョコばなし」では、普段フェアトレードの有機チョコレートを出して、「これで今日は勇気が出ましたね!」と終わるのですが、今日は残念ながら有機チョコをつまみながらおはなしができません。
      話だけで勇気が出るように頑張ります。

      実は神戸は私にとって思い出深い再出発の経由地でしたので、オンラインではなく、実際にこちらにこられて本当に嬉しく思います。
      本日のテーマは「人生を語り、楽しむ」ということですので、私がチョコ屋になるまでの破天荒な話を20分以内にまとめました。ちょっと聞いてください。

      私は39歳でチョコ屋を開業するまでに約14の職業を体験しました。
      今日は時間の都合上お話しできませんが、すべてに見えにくいドラマがあります。
      私は人口3000人以下の小さな村で生まれ育ち、私と双子の兄は親の事情で祖母にあずけられました。
      生まれつき目が悪かった私は、見えにくい世界が当たり前でしたが、小学1年になると、担任の先生が私の異常に気づいたようです。
      状況から判断すれば本来盲学校でしょうが、双子の兄弟別々では可哀相だと普通の学校で学ばせるため村ぐるみで助けてくれたようです。

      メガネでは視力が出ないので、小学2年からハードコンタクトレンズを使いますが、黒板の文字はよく見えませんでした。
      また白いノートや本がまぶしく、文字の読み書きも大変で、どこにいても見えにくさと、コンタクトレンズの痛みに悩まされました。

      ある日かかりつけ医師に、君は大人になったら手術しないと見えなくなると宣告されます。
      だからでしょうか、精神的ショックと恐怖で4年生でもオネショしてました。
      そんな不安定な私を慰めたのがチョコレート菓子です。
      なんだか心が幸せな気分になるチョコが大好きでした。
      また、時々東京の母が持ち帰る高級チョコレートが、私に強い刺激を与えます。
      私にとってチョコは、さみしさとストレスを癒す「心のぬりぐすり」でした。

      チョコレートには習慣性があって、愛情不足の人は心を埋めるため無意識にチョコを食べる傾向があるそうです。
      チョコの中には愛情に満たされた時に分泌される脳内ホルモンと似た成分が含まれているからだそうです。

      私はこの頃からチョコが毎日食べられるお菓子屋になりたいと思い始めます。

      小中高と成長に合わせてコンタクトレンズの性能も向上しましたが、左目には痛くてつけられず、視力検査の時以外はずっと片目です。
      ですから遠近感がわからず、学生時代だけで骨折やケガで7回病院のお世話になりました。

      就職前の高3の視力検査では両目で見て0.7の視力が出せました。
      しかし卒業後、仕事のマッチングに苦労しました。

      ある日、仕事中のケガの療養中に見たニュース番組で、近視が治る手術という特集がありました。
      同じ県内ということもあり後日診察を受けたところ、すぐに手術しないと危ないと診断されます。
      ショックでした。

      かかりつけ医師は反対しましたが、私は臨床段階の手術を両眼に受ける決断をします。
      成功確率50%、生まれ変わるつもりで平成2年、22歳の誕生日に入院しました。

      網膜をレーザーで焼き、進行を止めるため目の裏側に帯をかけ、角膜を切り取りスライスして縫い付ける手術です。

      先生は成功したと言いました。
      今になってみれば、やって良かったと思います。

      しかし後遺症で左目の角膜が濁り視力はゼロ、右目はコンタクトレンズが使えない目になり0.02となります。

      この時期は人生のどん底でした。
      視力が下がり、育ての親の祖母が亡くなり、仕事もお金も無く途方に暮れた末、指圧マッサージを学ぶ為、母のいる東京へ行くことにします。

      直前にお金を貯めるため、高原キャベツの会社に10ヵ月住み込みで働きました。
      そこに出稼ぎに来ていた淡路の大型トラックの運転手さんと仲良くなります。
      人使いの荒い雇用主から私を守ってくれる勇ましい人で、仕事の最終日になると、「神戸まで乗せてやるから、そこから東京へ行けばいい」と私を連れ出してくれます。

      淡路島にフェリーで渡りながら神戸港の夜景を私に眺めさせ、家族のいる自宅に泊めてくれました。
      みんなでボーリングして、ご飯を食べ、遅くまで子どもとテレビゲームをし、
      「お兄ちゃん、へた~」と子どもに笑われました。

      私は、この一家団らんのひとときに癒されました。

      翌日玉ねぎの積み降ろしを手伝い、どこだかわかりませんが私に渦潮を見せながら大きな橋を渡り、神戸港で下ろしてくれました。

      「あんちゃん、若いんだから頑張れよ。」というトラック運ちゃんの言葉が、父親を知らない自分には照れ臭く、又うれしく心に響きました。

      このあと、生田神社や異人館をひとりで巡り、新神戸から東京へ向かいます。

      そして幼稚園以来となる母との同居生活がはじまります。25歳です。

      東京は便利だと母から聞いて安心しておりましたが、実際は時刻表や表示が見えないので、とにかく移動に困りました。
      目的地になかなか着けないんです。
      スマホやタブレットがあればどれだけ便利だったかと思います。

      指圧マッサージの学校と東京暮らしに慣れたころ、こづかい稼ぎをしようと池袋西口でバイトを探していると、目の前に牛丼屋とケンタッキーフライドチキンがありました。
      その時不思議とカーネルおじさんが手招きしている気がしたんです。
      そうしてケンタッキーに吸い込まれるようにアルバイト面接をお願いすると即採用でした。

      しかし目が悪いことを上手く伝えられず、バイトの時だけと思いながら使用禁止のコンタクトレンズを右につけます。
      だからいつも目が真っ赤でした。
      無茶をしました。

      それでも黄金に輝く揚げたてのフライドチキンがあまりにも美味しくて、いつかKFCの社員になりたいと、一気に将来への展望がひらけます。

      東洋医学を学びながら、フライドチキンも揚げる生活が3年過ぎたころ、地元群馬の実家近くにKFCの新店ができると親友から電話がありました。
      私はこの電話中にそこで働く決意をします。

      針の実習と治療院でのインターン、国家試験対策を始めた3年生途中で学校をやめ群馬へ帰りました。
      この先に何かある気がしたんですね。
      東京のKFCの方々が段取りをつけてくれ、地方ですんなり社員になることができましたが、このカーネルおじさんとの出逢いが、私を幸運に導きます。

      私はこれをカーネルおじさんの奇跡とよんでます。

      ちなみにケンタッキー本部に了解をもらって、このチキン話をしております。どんどん話してくださいと言ってくださいました。

      群馬県のケンタッキーフライドチキンで2店舗経験し、栃木県の店へ転勤します。

      転勤して間もないある日、店長が休みの時に若い女性が面接に来ました、今の妻です。今日も一緒です。

      私は一目惚れしてしまい、平社員で権限がないのに勝手に面接し、その後結婚しました。
      そして娘が生まれ、家も建てます。

      また別の店では、「いい眼医者があるから上原さん、行ってみなさい!」とパートさんにすすめられます。
      そのパートさんは私の真っ赤な右目と、見えるふりで無理する私をいつも心配してました。
      そしてその大学病院の診察を受け、治療が決まります。

      その後、この病院で導入したてのレーシックを試しますが、最終的には角膜移植で左目に光が戻りました。

      それまでいろんな眼科で治療を断られてきたので、人生が変わるほど感動しました。
      また特注のコンタクトレンズを作ってもらうと、痛みもなく驚きの快適さでした。
      医学の進歩は素晴らしいです。

      私は入院中、ベッドの上で残りの人生を見つめ直しました。
      上司にも部下にも迷惑をかけない、自分仕様の店で独立しようと、小さなお菓子屋をつくる決意をします。

      副店長だった私は反対を押しきり会社を辞め、洋菓子界に入り各店で修行をします。

      妻に支えられながら修行と研究開発を平行して行い2008年、39歳でアカリチョコレートを開業しました。
      規模と欲の小さな
      無借金経営ですが、良質なチョコレートで、きちんと生活ができています。

      ちなみに店名は娘の名の「あかり」からとりました。
      広く明るく照らす灯りのようであって欲しいと名付けた名前です。

      小さい頃からの夢は目が良くなる事と大好きなチョコが毎日食べられるお菓子屋さんでした。
      今私は毎日好きなだけチョコを食べておりますので夢が叶ったということです。

      今の私の夢は、勇気のでるチョコばなしで妻と各地をめぐることと、いつか本を出すことです。

      「安易な道ほどやがて険しく、険しい道ほどやがて楽になる。」
      これは本物のカーネルおじさんの言葉です。

      今後も、見えにくい者の立ち向かう姿を、ありのまま語り続けたいと思います。

      ここまでが上原さんのお話です。その後は参加されたみなさんからの質問やおすすめのスイーツや趣味の話が続きました。

上原さんは朝・昼・晩とチョコを毎日食べ続けてているのになぜ太らないの?

      • →主食でコントロールしてバランスを取るように心掛けている。ビターチョコレート(カカオ70%以上)を選んで食べると太りにくい。ハイカカオを食べると食欲を抑える効果がある。甘いミルクチョコレートは糖分が多いので食べ過ぎに注意。

チョコとお茶の相性は?

      • →おすすめはチョコと白湯。チョコの味がいちばんよくわかる。紅茶はチョコとハーモニーを奏でるがコーヒーはケンカする。

お菓子作りが趣味だがチョコ菓子を充実させたい。チョコ菓子作りの秘訣は?

      • →チョコを溶かす温度が高すぎると固まってしまう。湯せんの温度は50度以上にならないように注意。湯で溶かすのではなく、湯気でチョコを溶かすようなイメージ。

音楽を続けたい

      • →楽譜がない時は点訳ボランティアさんにお願いしている。音源を聞いてから楽譜を読むようにしているが、音を聞くだけでは楽譜の記号や表現が難しいので楽譜は必要。
      • 英語の歌詞はOCRで聞いて覚えている。

暗譜で疲れたときにチョコを食べる。

      • →チョコには心を落ち着かせて穏やかになる効果と集中力を高める効果がある。シーンによって食べ分けるとよい。
        カカオ70-80%は気分があがって集中力が高まる。ホワイトチョコは優しく満たされる。

上原さんのチョコはどこで買えるの?

    • →アカリチョコレートはネットで購入可能。
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